ベルリンという都市は、国籍、年齢、エスニシティ、セクシャリティなど多様なバックグラウンドを持つ若者やアーティストが共生しながらあらゆる「面白いこと」を我先にと実験するーーそんなエネルギーに溢れた街だ。一方で、第二次世界大戦の爪痕やホロコースト記念碑など”負の遺産”の影が街のそこかしこに見え隠れし、誰しもが歴史の重みと正面から向き合わされる場所でもある。
そんなベルリン中心部の劇場「Dock 11」で、第二次世界大戦中の「満洲」で従軍看護師として従事した女性の記憶をめぐるコンテンポラリーダンス作品「Please Cry」が上演された。企画・主演は、長野県出身の日本人バレエダンサー、朶恵(えだ・めぐみ)さん。
祖母の体験からインスピレーションを受けて調査を進め、制作にいたったのだという。終演後に設けられた質問タイムでは、会場から戦争にまつわる質問が多く寄せられた。
「戦争に関して、理不尽さ、非道さなどの中で、特に何を表現したかったのか?」
「日本国内向けに上演するとしたら、内容や表現をどう変える?」
「満州での記憶だが、侵略のことはどう捉えて踊ったのか?」
彼女はどのような想いでこの作品を構想し、舞台に立ったのだろうか。詳しく話を聞いた。
ドイツの歴史継承に関する過去記事:歴史を学ぶ意味とは、理想の未来を現実に変える力を得ること。「21世紀における歴史の継承と挑戦」
インスパイアされたのは、おばあちゃんの「沈黙」
太平洋戦争中、3万を越える看護婦が国内から招集され戦場に送り込まれた。中国大陸へ派遣された日本赤十字の看護婦たちは、終戦後は攻め入る旧ソ連兵から逃れ、国共内戦の続く大陸の地を彷徨い、日本引き揚げに最も長く時間を要した集団のひとつでもある。
その壮絶な体験の証言は少しずつ集められているが、朶さんは自分の祖母がこの「従軍看護師」だったことを、生前に本人の口から聞いたことはなかったという。
朶さん:6年ほど前、たまたま祖母が赤十字看護婦として満州にいた時の写真を見つけました。若い頃の話として大変だったこと、楽しいことを含め、満州の話は一度も聞いたことはなかったので、驚きました。
いつもゲラゲラ笑って、おしゃれで、頑固で、楽しいおばあちゃん。だから尚更、祖母が戦争で一体どんな体験をしたのか、私には想像もつきませんでした。
祖父も満州で軍医をしていました。同時期に満州にいたのなら、二人はそこで出逢ったはず。看護婦としての壮絶な体験とは別に、ロマンティックな話もあるはずなんです。でもそんなことすら全然話に出たことがない。
もしかしたら私のまったく知らないおばあちゃんがどこかにいるのかもしれない、そんな想いで制作に取り掛かりました。
交通事故により65歳で他界した祖母に、大人になって戦争に興味を持つようになった朶さんが話を聞くことは叶わなかった。この舞台の序盤は、朶さんが直接天国の彼女と携帯で話すシーンから始まる。

死ぬか生きるか、一瞬の逡巡をさまよう
朶さん:私の祖母は戦時中の記憶をまったく語りませんでしたが、そういう人は他にもたくさんいるはずです。元従軍看護婦の証言者も、ある時期までは言えなかったそうです。
若い女性看護師たちは終戦後、命からがら逃げる中で性被害にあうことも多かった。壮絶な経験をした人やそれを見聞きした人は「結婚ができなくなる」と、社会的タブーの中で口をひらけなかった。
当時満州に派遣されていた元従軍看護婦の証言を調べているうち、朶さんはある証言にたどり着いた。戦争末期で物資が圧倒的に不足していて満足な手当てをできず、負傷した兵士に青酸カリを混ぜたコンデンスミルクを飲ませるよう指示されたというもの。
朶さん:敗戦が知らされたとき、その人は看護婦長から「これで自殺しなさい」と同じ青酸カリを渡されるんです。そのとき、「今なら泣いてもいい。泣きなさい」と言われた、と。それまではずっと、弱音を吐くことすら許されなかったのに。これがタイトルのインスピレーションになりました。
結局その看護婦は青酸カリを飲まず、生きることを選ぶ。だからこそ、今こうしてその体験も語り継がれ、現代のいのちにつながっている。戦争における生と死の模糊ーーこれが朶さんの原動力になった。
朶さん:祖母のことがきっかけではじまったプロジェクトでしたが、生と死が紙一重になる一瞬にフォーカスを当てて、この極限の状況を踊りとしてどう表現できるか考えました。

9月の上旬にサウンド・ダンス・フェスティバルでWork-in Progress(未完成の作品)としてこの作品を発表。観にきていたDock 11のディレクターからオファーを受け、そこからDock Artとの協働によって1ヶ月弱で仕上げた。
当初、戦争に関するテーマは全面に出さず、抽象的な仕上がりにしていたのだという。その後Dock 11側と構想を話し合っていく中で「戦争に関するメッセージをもう少し出した方がいいのでは」とアドバイスがあり、大きく練り直した。
朶さん:(戦争の)アイデアはあっても、あまり公には言うつもりはなかったんです。
今回見にきてくれたお客さんの中には、「こういう(戦争に関する)トピックだから見にきた」と言う方もいました。戦争に関する私自身の考えを問う質問に対しては、事前に言葉として準備をしていなかったのであまりうまく答えられませんでした。
でも、そういう人に出会うとプッシュされていいなと思います。私自身、このトピックには興味があるし、勉強しなくてはいけないと思っているので。
語りたかった“戦争と平和”。迷いながら「触れられない」と向き合う
朶さんはダンサーとしての歩みを振り返り、「自分のテーマはいつも戦争と平和だった」と語る。その発端は20年ほど前、ロンドンのランバートダンスカンパニー所属時に発表した「8時15分」という広島の原爆に関する作品に遡る。
朶さん:ちょうどイラク戦争が始まった時期でした。タイトルは広島の平和祈念館にあった、止まったまま溶けている時計。自分は出演せず、男性ダンサー4人が踊り、いい作品ができたと思いました。
朶さんの義理の両親は、実際に戦争の経験をした世代のアメリカ人。夫の故郷へ帰省した際、朶さんは彼らに「8時15分」を披露したそうだ。
朶さん:まだ若かった私は「こんな作品を作ったよ」と無邪気に彼らに披露しました。すると、義母さんに予想していなかった言葉を言われました。
「私達も大変な経験をしたのよ」「あなたたちだけが被害者じゃないのよ」と。
彼女はとてもいい人で大好きだし、(自分の想いが受け入れてもらえず)ショックでした。そのときに、自分の意図しない形で受け取る人がいるということはきちんと考えた方がいいぞ、と思いました。アメリカでも自分のテーマである戦争と平和に関する作品を作りたくてしょうがなかったけれど、「これはまだできないな」と。

それから出産、引っ越し、新境地での活動など多忙を極める生活の中で、次第に戦争と平和に関する想いは胸の奥へ押しやられていった。
朶さん:当時は作品を作ろうという元気もないですし、生活と、ダンスと、お母さんをやってるだけでもう精一杯でした。
しかし、コロナ禍で外出できない中オンラインでバレエのレッスンやキッチンからの作品配信など新たな取り組みを始めた朶さんに、変化の兆しが訪れる。
80 年代からニューヨークのポストモダンダンスシーンで活躍しThe School of Hard Knocksのディレクターである中馬芳子さんのゲストとしてオンライン企画に呼ばれ、かつての作品「8時15分」を見せる機会があったのだ。
朶さん:当時の内容を思い出し、練り直して発表したのですが、それが思いがけずとても好評で。あれからもう20年近く経ったいま、「また自分の原点に戻ってもいいかな」と思えたんです。
解かれていないタブーへのもやもや。幼少から隣り合わせてきた
朶さん:私は16歳から海外でプロとして踊っていて、戦争に特段の興味を持つこともないし、バレエに熱中しすぎていて他のことは見えず、自発的に勉強する機会もありませんでした。でも自分の小さな頃から抱いていた違和感や、地元で幼少から出会っていた場所が「戦争ってなんだろう」と考え出す発端になっていたのだと思います。
朶さんは長野県の出身だ。家の近くには松代大本営跡という、本土決戦を見据えた戦争末期に天皇や国の主要施設を首都圏から秘密裏に移すための計画が進められていた場所があった。教師の傍ら歴史家としても活躍する朶さんのお父さんは、小さい頃から朶さんを連れて度々松代を訪れたという。
朶さん:当時は、あまりその場所の意味をわかっていませんでしたが。今はもう一般公開されて入れるようになっていますが、まだ80年代には公になっていなかったんです。この場所の存在自体、公には容認されていなかった。写真を撮ろうとしたら「撮るな」と訳もわからず怒られたり。
「8時15分」をつくる直前の2002年に、朶さんは夫を連れて再び松代を訪れた。
朶さん:その時、父の言った「原爆がなかったら日本でも本土決戦が起きて、君たち二人は出逢っていなかったかもしれない」という言葉が深く印象に残っています。

朶さんの最初の所属先であるハンブルグへ渡った年に、ユーゴスラビア紛争が起きる。寝食を共にしていたルームメイトは、そのユーゴスラビア出身だった。あるとき彼女のお父さんが誘拐されるという出来事が起きた。
朶さん:その頃はインターネットもないので学校の中の電話線を見つけてきては、どうにか電話を繋げてみて。ばれたら学校から追い出されるからと、その子が話すあいだ私が見張り番の役をしたのを覚えています。
上のベッドで寝ていた人がそんなに切羽詰まっている状況にあっても、自分の夢に向かうことで精一杯で、掘り下げて理解することはできませんでした。でもそうして人から聞いた体験や感情が自分の中で積み重なって、潜在的に表現における問題意識を向かわせていたのかもしれません。

大文字ではなく、個人の記憶でしか語り得ない。
太平洋戦争の破滅に向かう暴走を止められなかったのは、一部の軍人や思想統制のためだけではなく、国内での総力戦ではなかった第1次世界大戦のあとで楽観的な雰囲気が共有されていた社会全体のムードにも要因があったのかもしれないーー調査を進める中で、朶さんはそう感じるようになったという。
朶さん:でも、日本人にはあまりそのようなことを話せません。日本は被爆国で、みんな飢えて、苦しんで。それ以外のナラティブは言ってはいけないという、タブー感のようなものがある気がします。
この「タブー感」ーー戦争に関することを話す壁を、朶さんは戦後80年が経とうとしている日本社会でも、いまだに感じている。
朶さん:なんとなく、恐ろしいです。自分の言ったことや発信したことに対する受け止められ方は、コントロールできないから。私が何か言ったらバッシングをもらいそうで「簡単に言えないな」という気持ちがずっとあります。
発されない声をいま、聴く。踊る。2025年に向けて物語を紡いでいく
2025年、終戦から80周年を迎える。「Please Cry」を皮切りに朶さんは現在、なるべくたくさんの人の記憶、その「人生のポートレート」をめぐる物語をつむぐプロジェクトを計画している。意見の相違や異なる歴史観が人々を分断するとき、突破口になるのが「個人の記憶」だからだという。
朶さん:音響を担当してくれた麗子さんは広島出身で、彼女にとって原爆は絶対に許されないものです。でもアメリカ側では「日本が始めた戦争を終わらせた」として容認する意見を言う人もいる。
戦争のことを今でも「あれがあったから今の自分がある」とポジティブに語る人もいます。それは「つらかった経験は伏せて新しい時代をつくる」という社会や教育の風潮だったからかもしれません。戦争という暴力装置の中で、ひどいことをしたし、されたし、見たのに。
「戦争についてどう思うか」なんて問いは、もしかしたらパッと答えられるようなものではないのかもしれない。結局、個人が等身大で伝えられるのは、自分や自分の近い存在の人が見聞きしたことだけだと思うから。

現在は、大阪出身・在日コリアン3世のサックス奏者と一緒に彼と彼の家族の記憶をめぐる映像作品を作っているという。
朶さん:彼にインタビューして、おじいちゃんとおばあちゃんが日本でどのような体験をしたのか話してもらいました。ちょうど雪が降った日のベルリンでフリージャズを演奏してもらい、私はそれに合わせて踊りました。
他のプロジェクトは物語からインスピレーションを受けてダンス作品を作るかもしれないし、ドキュメンタリー映像かもしれないし、1枚の絵になるかもしれないし、はたまた映画になるかもしれない。
今の世界にも問題が山積みなので、終戦からの80年間の間で何がどう繋がって、こじれてそうなってるかについても、いろいろな人の声を聞いていきたいです。作品を創っていく中で私自身も勉強し、知識を深めていくことができると思うので。
朶惠(えだ・めぐみ) | 長野出身。クラシックバレエをバックグラウンドに持つ舞踊家兼映像作家。 ハンブルグ・バレエ学校に招聘され、16歳で日本を離れる。15年間にわたりハンブルグバレエ団、オランダ国立バレエ団、ランバートダンスカンパニーに所属し、ジョンノイマイヤー、クリストファーブルース、ジリキリアン、ウィリアムフォーサイス、トワイラサープ、デヴィッドドーソンなど多くの振付家とコラボレーション。 2004年、Armitage Gone!Danceの創設メンバーとしてニューヨークに活動の拠点を移し、アミタージュのミューズとして全ての作品に出演。 2014年よりパフォーマー/映像作家としての活動を開始。2019 年より拠点をベルリンに移し、現在はダンスと映画やビデオを組み合わせたパフォーマンスアートに取り組む。2004 年、ベッシー賞 (NYC Dance & Performance Awards) 受賞。また、2015年にはDance Magazine の BEST PERFORMER選出。