記憶にある特定の意味づけがされるとき、その想いは誰のものを反映しているのかーー。
2015年に世界文化遺産に登録された”記憶の有形物”である福岡県南部・大牟田に位置する三池炭鉱を訪ね、普段問われることのない「歴史の意味づけ」を日韓のメンバーがひもときながら歩く、このシリーズ。
第一弾の記事では、巨大な資本主義国家へと舵を切ろうとしていた明治時代の日本において、囚人や植民地出身者など社会的に周縁化された人々が危険な労働に従事し国家の根幹産業を支えるという、現代にも連続する構図が明らかに。
今回は日本の外に目を向け、文化遺産登録をめぐり度々政治問題化される争点と、市民の協働が持つ可能性について、実際に市民の協力によって建てられた記念碑を巡る中で探ります。
「それぞれが見ている歴史」「一緒に見たい未来」をすり合わせていく
炭坑での仕事は危険な重労働であることに加え、主な労働力として囚人が多く動員されたことから偏見を持たれる職業でもあった(前回の記事参照)。産業が巨大化していくにつれて国内で供給できなくなった労働力を補うため、朝鮮、中国、そして第二次世界大戦以降は連合国軍の捕虜が動員されていった。
2015年の世界遺産登録の際に議論の的となったのは、この「強制労働」があったのか否か、という点。日本政府は公式に、東アジアの各地から「自らの意思に反して(against their will)」労働者が動員され、「強制的に労役(forced to work)」させられた事実があったことについては認めている。
しかし、2020年6月に公開された東京の産業遺産情報センターには、朝鮮人の強制労働を否定する内容の証言や資料が展示され、国内外から批判を浴びた。
ユネスコの国際記念物遺跡会議共同調査団は翌月の12日、産業革命遺産の紹介が朝鮮半島出身者の強制動員問題を事実上否定しているという内容の報告書を公開。センターの展示内容について「被害者側からの視点が欠けている」と指摘した。
一方、韓国・ソウルの植民地歴史博物館では7月16日から11月7日まで、韓国の民族問題研究所が日帝強制動員被害者支援財団と共催する展示会「被害者の声を記憶せよ!強制動員の歴史を展示せよ!」が開催される。
展示では国内初公開となる長崎の高島炭鉱、福岡県の三池炭鉱の強制動員被害者の証言映像のほか、帝国日本による植民地時代に強制動員された被害者19名の証言映像が公開されているという。
韓国の民族問題研究所は展示会の開幕に合わせて声明を出し、「強制労働の真実を明らかにするために努力してきた韓国と日本の市民は、世界遺産委員会が公開した勧告を支持し、歓迎の意を表する」としている。
「ファンクラブ」藤木さんと共に。垣間見えた、市民レベルの可能性
強制労働を巡って政治的に対立するこの問題も、結局は1人ひとりの人間が理不尽に苦しめられ、悩み、傷ついた記憶をどう扱うのかという問いに終始する。そこには、イデオロギーもハイレベルな外交の議論も必要ないはずだ。
では「強制労働」の非人道性は、記憶の遺産が残る地方の自治体や、住民たちなどの市民レベルではどう扱われているのか。
「NPO法人 大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ(略称:ファンクラブ)」の代表・藤木雄二さんが、大牟田の街に残るその手がかりを教えてくれた。
まず私たちが向かったのは大牟田市馬渡第一公園。
ここには、1997年に建立された朝鮮人強制連行碑がある。三井三池に強制連行された朝鮮人の一部が暮らしていた馬渡の施設の押し入れの中に書かれた文字が後の調査で発見され、のちに碑として利用されるに至ったのだという。
建立文に記されている内容は以下の通りだ。*
「第二次世界大戦中大牟田の三池炭鉱に朝鮮から数千名の朝鮮人が強制連行され過酷な労働を強いられた。そのうち約二百余名の朝鮮人が「馬渡社宅に」に収容されていた。
馬渡社宅の51棟の押入に彼らの望郷の念がこめられた壁書が1989年に訪れた強制連行の歴史を学ぶグループにより発見された。
戦時中とはいえ朝鮮人に多大な犠牲をもたらし、さらに犠牲者の痛みを思う時ふたたびこのような行為をくり返してはならない。
そこで、この地に「壁書」を復元することによって戦争の悲惨、平和の尊さを次の世代に語り継ぐため、この記念碑を建立するものである。1997年2月 大牟田市
*この建物自体は現在すでに取り壊されているため、文字のみ大牟田市の石炭産業科学館に保管されている。
強制連行の非人道性を認めない日本政府。「同じ過ちを犯さない」と明確に誓い、平和を次世代に継承しようとする大牟田市。両者の姿勢の違いに驚かされた。
国家、権力、利害などが複雑に絡み合い、巨大化して人の顔をしていない主体ではなく、いまを生きる人たちの集まる「顔の見える場」としての地方自治体、市民のレベルだからこそできる、未来に向けた関係構築の余白部分が垣間見えたようにも感じる。
住職みずから、慰霊碑建立に奔走した
次に訪れたのは熊本県荒尾市の正法寺。1972年、三井三池での強制連行被害者を追悼する碑が二基建立された。一基は朝鮮人、もう一基は中国人を追悼するためのものだ。
正法寺に存在する朝鮮人追悼の碑は「不二之塔」と呼ばれ、過酷な労働の中で命を落としたすべての朝鮮人の慰霊とともに、冷戦後も断絶が続く南北朝鮮の統一への想いも込められている。
また「中国人殉難者慰霊碑」は殉難への哀悼に加えて、建てられた1972年にちなみ日中の国交回復に込める両国関係への期待も込められているという。
この建立に奔走したのが、正法寺の赤星住職だ。
赤星住職は、まだ中国と日本の国交が無い時期から塔の建立費を集めるために3年間にわたって托鉢を続け、自力で総額35万円を集めることに成功したと以前のインタビューで語っている。人々の供養の気持ちを集めることを一番に考え、あえて托鉢という形式をとったのだという。
・参考:赤星住職へのインタビュー記事
みずから進んで困難を引き受けてきた住職だからこそ、一言一言の重さが胸に響く。
お話を聴きながら、こうして地域の人々の手によって過去への償い、そして未来への警鐘が確実に受け継がれていることに、とめどない感謝の想いが溢れてきた。
一部の人に任せっきりにするのではなく、もっと多くの人たちが協働していけるのではないだろうか…
「私たちはいかにこの歴史と向き合い、懸命な活動を受け継いでいくべきなのだろう」。地元の皆さんの活動に感銘を受けると同時に、今を生きる責任をひしひしと感じて、武者震いする時間となった。
「悲しみは国境を越える」史上最悪の日中関係の中で繋がった想い
宮浦石炭公園にも、日本中国友好協会が建立した追悼碑が建っている。
碑文によると三井三池炭鉱には2481名の中国人が連行され、そのうち635名が死亡したという。宮浦抗に至っては、54名中44名が無くなっており、労働環境の劣悪さが明白だ。
慰霊碑は比較的新しく、2013年に建立されたばかりだ。前年での2012年は領土問題など日中関係を刺激する出来事が重なり、二カ国関係は戦後最悪とも言われた年。
しかしあくまでそれは、国と国との話。日本と中国の人々の協力によってその時期にこの碑の建立がされたことに想いを馳せると、市民どうしの繋がりは政治に左右される必要がまったくないこと、そしてその可能性に改めて気づかされる。
皆の想いが詰まった碑だからこそ、かけがえのない意味が生まれた
最後に訪れたのは大牟田市の甘木公園。ここでは毎年慰霊祭が開催されている。
・慰霊祭の参考記事はこちら
甘木公園には「徴用犠牲者慰霊塔」があり、韓国語で記された碑文もある。これは在日コリア大牟田の人々の呼びかけで大牟田市、3つの企業(三井石炭鉱業株式会社三池鉱業所、三井東圧化学株式会社大牟田工業所、電気化学工業株式会社大牟田工場)、そして市民が協力する形で1995年に建立された。
慰霊碑は今も朝鮮半島の方を向き、誇らしげに建っている。
今回私達は藤木さんのご協力のもと、この慰霊塔建立の立役者であり、在日コリア大牟田代表の禹判根(ウ・パングン)さんにお話をきくことができた。
徴用で連れてこられた仲間が炭坑で命を落としたという話を知人から聞いた経験をきっかけに、禹さんは慰霊碑の建立のために動き始めた。
1990年に市役所に直接話を持ち掛けて許可を乞い、その書類を手に慰霊碑建立費用を求めてみずから企業へ出向いた禹さん。
当時、朝鮮総連(在日朝鮮人総連合会)を不審視する企業からの信頼を取り付けるには大変な苦労があったという。それでも諦めず、5年間・計250回にもわたる粘り強い交渉の末、十分な額の慰霊碑建立費用を獲得するにいたった。
実は禹さん、建設業を営んでいたこともあり、5年間の歳月と労力をつぎ込めば、250回自費で慰霊碑を建てることも不可能ではなかった。
しかし、建立場所を大牟田市に構え、建立費用を企業が捻出すること。そしてその調整に自分をはじめとした市民が協力する。「たくさんの人々の思いが詰まった碑だからこそ、かけがえのない意味が生まれたのだ」と禹さんは力強く語ってくれた。
噛み合わない議論、繰り返される政治問題化
日本政府は世界遺産一覧表への記載決定に際して、2015年7月5日第39回世界遺産委員会において以下のように発言している(外務省発表の日本語仮訳)。
「日本は,1940年代にいくつかの場所において,その意思に反して連れて来られ,厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと,また,第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる所存である」
この一文には、次のような注釈がつけられている。
[1]「意思に反して連れて来られ(brought against their will)」と「働かされた(forced to work)」との点は,朝鮮半島出身者については当時,朝鮮半島に適用された国民徴用令に基づき徴用が行われ,その政策の性質上,対象者の意思に反し徴用されたこともあったという意味で用いている。
[2]「厳しい環境の下で (under harsh conditions)」との表現は,主意書答弁書(参考)にある「戦争という異常な状況下」,「耐え難い苦しみと悲しみを与えた」という当時の労働者側の状況を表現している。
[4]今回の日本代表団の発言は,従来の政府の立場を踏まえたものであり,新しい内容を含むものではない。
[5]今回の日本側の発言は,違法な「強制労働」があったと認めるものではないことは繰り返し述べており,その旨は韓国側にも明確に伝達している。
戦時下の暴力に関して、当時適用されていた枠組みの中での合法性を問うことの限界については、現代においても議論が重ねられている点だ。
命をも危険にさらす労働のために本人の「意思に反して(= against their will)」連れてこられ、「働かされた(= forced to work)」事実は、人間を含めた植民地のリソースを枯渇するまで搾取する帝国主義イデオロギーの中では確かに「違法な」強制労働ではなかったかもしれない。
しかし終戦後、民主主義国家として過去の過ちを清算する旅路を辿ってきた日本というまったく新しい国を代表する立場にある組織が、外国人強制労働の事実や過去を認めながらも、なぜいまだに当時の枠組みにおける”合法性”を主張するのだろうか。
戦時中の”合法性”をいま、「人道」をキーワードに見つめる
中川の「見知らぬわが町1995 真夏の廃坑」によれば、太平洋戦争の開戦前における三井三池の坑夫採用条件は「当地方二土着永住(その土地で生まれ育った人)」「土百姓ニシテ世ニ馴レザルモノ(農業に従事し世の中に慣れていないもの)」だった。工業化の波の中で職を失った百姓の行き場として鉱夫という職業があったことが窺える。
しかし開戦に伴い、だんだんと国内の労働力が不足していくと事態は激変。朝鮮人や中国人を動員することで労働力を補い、戦争を継続していた終戦間際の日本の姿が浮かび上がってくる。
歴史研究者の竹内康人は、厚生省勤労局名簿、石炭統制会資料、福岡県特高資料などを基にした緻密な調査によって朝鮮から三井三池炭鉱へ連行された労働者の数を約9300人とみつもり、三井の石炭コンビナート関連の工場労働や湾口労働への連行数を入れれば1万人を超える連行があったと著書「調査・朝鮮人強制労働①炭鉱編」に記している。
さらに同書には、福岡県全体の60を超える鉱山へ連れてこられた朝鮮人労働者の数は1945年5月ごろまでに累算で15万人を超えたという記載がある。
連行された人々の生活が例えようがなく悲愴を極めたことは、残された証言の数々から窺い見える。「どうせ死ぬのだから、死ぬ覚悟で逃げ出そう」と脱走を試みた人の過酷な経験も証言として残っている。
「連行のうえに長時間過重労働(炭坑にて15時間以上)が課せられていました。負傷は日常、欠勤すると貧しい食事を更に減らされ、暴力で管理を受け、そして強制貯金をさせられるうえに抵抗する者は検挙。罪のない人々がそんな日々を繰り返していたのです」
(竹内康人『調査・朝鮮人強制労働①炭鉱編』より引用)
政府と、地元、市民との間に歴史解釈の差がはっきりと存在していること。国家間の外交の拮抗や政治の冷え込み、政治家の言葉の一つ一つを切り取って薄い愛国感情を煽るのではなく、このように連綿と続く市民レベルの懸命な取り組みにこそ、もっともっとスポットライトが当てられるべきなのではないか。そう感じずにはいられない私たちがいた。
現代の東アジアの国々との関係をめぐっては、”人の顔”が見えにくいこともしばしばある。しかし、こうして光の当たらない暗闇にもしっかりと受け継がれてきた繋がりは存在しているのであり、その繋がりによって生まれた互いを思いやる気持ちから成り立つ関係こそ、本来「越境」の意味するところなのかもしれない。
市民の目線からだからこそ描ける、”繋がり”の多彩で自由な表現。先人が試行錯誤して踏み分けたその一歩一歩をたどり、私たちが丁寧に繋いでいくことで、彼らと「一緒に見たい未来」に向かう旅路が続いていくのだ。
次回へ続く
取材・文:佐々木彩乃、朴珠美、田島桃子 編集:神山かおり
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なぜ今回、THE LEADS ASIAがこの土地を訪問したのか。
きっかけは、フリージャーナリスト・室田元美さんに「日中韓の新たな歴史のあり方を探る手がかりがある」と情報をお寄せいただいたことでした。
室田さんからNPO法人 大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ(略称:ファンクラブ)の藤木雄二さんのご紹介を受け、THE LEADS ASIAメンバーが現地へ取材に向かいました。
室田さんからは日中韓に係る歴史を紐解く手がかりとして三池炭鉱をご紹介していただきましたが、実際に足を運ぶことで炭鉱にまつわる様々なお話を地元の皆さんから伺うことが出来ました。
コロナの影響もあり、未だ人の自由な往来は難しい状況ではありますがより多くの人々、特に私と同じ世代(Z世代)の人にこそ興味を持って、出来れば現地に足を運んでもらいたいという思いで書きました。
三池炭鉱は「日本」の明治維新、そして戦後復興を支えた場所、そんなイメージが先行しますがその「裏」でも「表」でもなく「事実」として中国、韓国をはじめとした方々の記憶が存在します。
大切なのは、新しい視点を受け止める柔軟性を大切に、歴史と向き合い続ける、考えることなのではないかと執筆を通して感じました。
その中で韓国、北朝鮮そして中国の人々にもこのような日本の「地域」の取組みを紹介したいという思いが私達の中に強まりました。今回のような地域の人々が長年取り組まれてきた活動に人々が「気づく」ことをきっかけに新たな対話が生まれることを願いつつ、私たち自身もその対話を支える存在でありたいと思うばかりです。
参考文献
『明治日本の産業革命遺産・強制労働Q&A』 竹内康人①
『調査・朝鮮人強制労働①炭鉱編』竹内康人②
『見知らぬわが町1995真夏の廃坑』中川雅子
※こちらは忽那汐里さん主演で福岡発の地域ドラマ「見知らぬわが町」としてリメイクされ、2011年から放送されました。ご興味のある方は是非ご参照ください。
『霊よ、安らかに-三池炭鉱囚人労働写真集-』大牟田囚人墓地保存会
「炭鉱労働者の移動 と旧産炭地の社会変動」高橋伸一・若林良和
「太平洋炭鉱労働組合『5 分間ニュース』からみる戦後日本石炭産業の収束過程」(WASEDA RILAS JOURNAL No.6) 清水拓
取材協力
NPO法人 大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ 藤木雄二さん
在日コリア大牟田代表 禹判根(ウ・パングン)さん
大牟田市石炭産業科学館