データと実体験の間。「インフォデミック」が分断するコロナ時代を、平和学者はどう見る?

2020年6月13日 | Special Interview

SNSで瞬時に情報が拡散される中で、国内だけでなく国を越えて広がるウワサやいわゆる”フェイクニュース”は時に深刻な社会分断をもたらします。

「インターネットの情報を鵜呑みにしちゃいけないのは分かったけど、政府や権威ある機関でさえ時に信頼できないとなれば、何をどう信じれば…?」このモヤモヤを、東アジアの平和学研究者、金敬黙教授にぶつけました。

偽の情報に惑わされず平和な社会を築いていくためには、数的データに基づく正確性の積み重ねだけではなく、「対話による共感の構築」が必要だと言います。

人生で迷った時の意思決定のしかたにも通じる、「嘘を見抜くだけ」「理解するだけ」ではない能力。どういうことなのか、教授の実体験を交えて教えてもらいました。

「インフォデミック時代」の、情報との付き合い方

金教授:読むもの、読まれるものである数的情報やデータはミスリードしやすい(誤認を生みやすい)し、言葉を変えれば容易に人をだますことも出来ます。

信頼できるはずの政府や権威的な組織も、数字の背後ではたとえ「誤った」情報を流しても責任を問われず、情報を利用し世論をmanipulate(操作)することも理論上可能です。

こういったデータを価値のある情報にできるのは、経験値です。感覚や経験で「なんか変だな」という第六感的な直観をいかに研ぎ澄ますか。その為のアナログ的な領域における経験の積み重ねが重要だと思っています。

デジタル化の進む社会ですが、リアルでアナログな空間の価値は続いていくと思います。

「ポストコロナ」時代にオンラインがニューノーマルになれば、体験を元に得られるリアルな空間のメリットもむしろ増えるかもしれない。

写真も報道も人間関係も、現実があってこそのオンラインです。デジタルスペースは1(オフライン)があるから2というデジタルスペースが生まれる。2が3になるのを追い求める事も大切かもしれませんが、予定調和じゃない、アドリブ的なハプニングという独立した1(オフライン限定)の価値が無くなってしまえば、3の誕生はありえません。


(NZの大学で開催された学術会議で話す金教授 / 本人提供)

机上の空論で平和を”計算する”ことへの違和感

金教授:私も、かつては計量分析を主とする人たちと同じゼミに属する正統派国際関係論の大学院生でした。アクターをシミュレーションして、戦争の勃発する状況を想定し可能性を予測する、冷戦下で主流になった古典的な安全保障を前提とした学問です。

「パイの奪い合い」を基礎として、マルチラテラルな協力と競争を戦略的に考えるこうした考え方を私は「平和的リアリスト」と呼んでいます。これは「戦争のマネージメント論」のような発想に繋がりかねないし、数値化された分析や机上のシミュレーションで果たして平和が測れるものなのか、と違和感を抱えて過ごす日々。

平和学はもともと、国際政治学から独立して暴力研究から始まった応用学問です。なので「Why?」だけでなく「How?」や「What?」の部分も含めて悩んでいくことが求められます。だからこそ、数字だけで測ることには限界がある。

もちろん、科学的な分析や研究にもそれぞれ意義があるのは確かです。でも私はもっとTangible(手に取って触れる)な平和に関わりたいと思い、NGO(非政府組織)で活動するようになりました。

紛争現場での実体験が「現場主義者」にさせた

金教授:大学院にはめったに顔を出さずNGO(日本国際ボランティアセンター)で活動していた1999年に、コソヴォ紛争が起こりました。当時、外務省がNGO専門調査員を派遣していて、第一期の7人のうちの一人として選んで頂きました。

当時、日本や欧米社会のメディアで騒がれた「セルビア悪玉論」や虐殺論に基づき、NATOの78日間に渡る空爆が行われた結果、80万以上の難民と数十人の市民犠牲が生まれました。

このNGOは「悪玉」とされている国や地域でも必ず正しいことをしている人もいるという前提でリアルな声を探し、市民が政治的な道具に使われない為に守る活動をしていました。人の命を天秤にかけて正義と悪を測るような側面が国際政治にはあるのだという矛盾を、紛争現場を初めて訪れたことで理解できました。

30才の誕生日には、人道支援活動でアフガニスタンへ。現地の人々との交流の中で、自分の生き方が果たしてサステイナブル(持続可能)なのか考えさせられました。例えば、何十羽もいる中から鶏を選びその場でさばく少年との出会い。日々の生活で「平和」を手にしながらも食料すら調達出来ない自分には、一体どれだけの強靭性が備わっているのだろうか、と。

その復路、飛行機に乗っていた時です。ドクターコールがかかり、ユニセフの医者が治療できると手を挙げました。同じ「ドクター(博士号)」であっても、自分が当時目指していたドクターは世の中に何も役に立たないのではないか、という戸惑いが生まれました。これが劇的な思考の変化を生み、論文の内容を変えるきっかけになりました。

「研究者か、実働か」という選択を突きつけられたときに、安定を第一に考えている自分に気がつきました。これまで博士論文が進まないなど「みみっちいこと」だけを考えて生きてきた自分は、社会にどのようなメッセージを発信したいのだろう、と「社会への貢献」を軸にした選択が初めて出来るように。それで博士論文に「越境するNGOネットワーク」を書き上げました。

「キャリア×世の中を変えるイメージ」のシナジー

ーーー安定を第一に考えてしまうというのは、刺さります。日本で生きていて、周りにもこういう子は多いかもしれない。

金教授:世の中で色々な人が共存をしていく中で、「こっちが良い」「正解はこれ」という判断は私にもありません。しかし大学教員をしていて、「予見できる未来の方が安心」という考えの若者が増えていることは感じます。私は、キャリアのイメージと世の中を変えるイメージのシナジーが大事だと思います。

独立をして起業する、ソーシャルビジネスなどを始める素晴らしい学生が増えている一方で、何もかもがお金に還元されすぎなのではないか、と思う節があります。

ネオリベラルな価値を前提とした資本主義のメカニズム的には、効率を求める姿勢というのは頷けます。けれど効率を求めるあまり、物事をじっくり考えて言語化する姿勢が評価されない時代になりすぎることには危機感を抱きます。

答えがあるという仮定でしかモノを考えない人が社会をつくると、単線論的なモノの考え方をするようになってしまう。

平和は与えられた状態や結果ではなく、あくまでプロセス。理想的な平和像というのは個別に存在していて、誰かの平和は他の誰かの平和では必ずしもない場合も多々ある。

ーーー今は大学教授として教育の領域にいらっしゃいます。その選択はどのように?

金教授:研究者、外交官、国際公務員という進路を考えていましたが、大学院でNGOに関わってからその面白さを知り、「現場型の平和主義者」でありたいと思うようになりました。それで自分の「現場」として、高度な自由度があり、やりたいことを研究してフィードバックをもらえる教員の道を選びました。

そしてその「現場」の中で、自分が環境の中であたり前のように知っていることを社会に発信していくことが一番最適だ、と。私の場合だと、ヨーロッパや北米の差別の構造を語るよりも、東アジアの事情や南北朝鮮問題などアジアの事情の方が生きてきた中で自然と文脈や背景をよく知っています。

<理想的平和主義>
「祈る平和」や「静かな平和」ともいえよう。千羽鶴を折って平和を祈願することに代表されるように、直接的な平和行動にはつながらないにしても願いや倫理観が伴う。夢想主義と揶揄されるかも知れないが、その願いは、原理や思想の灯火になっている。

<現実的平和主義>
「創る平和」や「動く平和」ともいえよう。具体的な行動やミッションが伴うリアリズムに基づく。軍事主義との線引きが難しく、また、武力や軍事力に基づく平和の実現というアプローチそのものが矛盾を抱え込む。この考え方は軍隊の人道支援や軍事的な介入、正しい戦争の根拠担っている。他方、武力闘争や革命主義者も、自らの平和の実現のための戦いを模索する上でこの考え方を掲げるであろう。

<現場型平和主義>
軍や国家権力、反政府組織たちのような現実主義的な立場にも適用できるし、非暴力・非武装に徹した人道支援グループや平和活動の人々が現場で行動をするのであれば、理想主義的な立場にもなろう。NGOにせよ、軍隊にせよ、争いの震源地や現場での活動を重視する立場にある。 

    (著書「越境する平和学:アジアにおける共生と和解」より引用

アジアの文脈の「平和」と、ポスト・コロナ時代の「対話」

ーーー地理的に近くても政治の文脈も違えば、歴史・文化・社会において違いがある東アジアで、「平和構築」を考えるときに念頭に置くべき平和とは何なのでしょう?

金教授:平和を考えるうえで、いくつか考慮すべきことがあります。

まず、語る人が置かれている時代や場所のコンテクスト。それによって語られる「平和」は異なります。例えば、イスラエルの人とパレスチナの人でそれぞれ考える「平和」は違いますよね。アジアという地理的に近い国々から人が集まったときも、そのことを考えないといけない。

そして、ポジショナリティ(経験主義)への考慮。人は皆、経験に基づいて物事を信頼したり判断したりする。だからこそ、その「平和」が誰の経験や体験に基づいたものか、考える必要があります。

それでも、人々の不幸を土台にして成り立つ平和を目指すプロセスは、絶対に平和的ではないと言えます。

ーーーそれぞれ異なる体験に基づいて「平和」を定義している。けれどもそれをある程度すり合わせる必要性も感じます。楽観的に見れば、SNSで情報が共有できる時代、お互いに疑似体験ができるようになればこの「平和の擦り合わせ」もしやすくなるでしょうか?

SNSは自分達だけの「同調空間」で終始しやすく、他の意見を排除してしまいがちな側面があることは確かです。だからこそ、パブリックスフィア(公共空間)での開かれた議論を追求して行くことを提唱しています。

金教授:世界各地で様々な運動が広がっている今の状況は、チャンスでもあるし、危機にもなりえます。

個人的には、アメリカや欧州で今起こっていることが68年の文脈に近いのか、違うのかを考えてみてほしいと思います。各国それぞれの文脈で違うように見えても実は世界には共通の問題が潜在していて、それが飛び火して広がって行っているのかもしれない。それぞれが自分の属する共同体のメンバーシップと向き合ってその中のセキュリティ(安全の確保)をどう高めるか、を考えて行く必要があります。

国家の枠組みで解決を試みてしまうのは、相手集団に対する「わからない」という不安から。ここに言語の壁があることに加え、例えリンガ・フランカ(共通言語)として英語が使われ意思疎通が出来ても、歴史的・社会的な文脈や背景が違うと噛み合わないという問題があります。

どれだけ情報自体が交換できても、言語の後ろに隠れている文化観・ルール・価値観などは「共感」出来ていないということを念頭に置いておくべきです。

この「共感」をどう作って行くのかが課題ですが、解決方法は対話しかありません。
あなた達の世代が重ねる対話が作り上げていく将来の「共感」に、期待しています。

金敬黙
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術:東京大学、2006年)。 1999年~2002年に日本国際ボランティアセンター(JVC)で調査研究を担当。 05~15年、中京大学国際教養学部教員を経て現職。08年から日本国際ボランティアセンター理事をつとめる。単著に「越境するNGOネットワーク」(明石書店、 2008年)、共編著に「国際協力NGOのフロンティア」(明石書店、2007年)、越境する平和学:アジアにおける共生と和解」(法律文化社、2019)、その他多数。

(インタビュー・佐々木彩乃 文・神山かおり)

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